昭和44年7月30日 朝の御理解         (末永信太郎)    №44-115

御理解第八十四節
 おごりがましいことをすな。ものは細うても長う続かねば繁盛でないぞ。細い道でも、しだいに踏みひろげて通るのは繁盛じゃ。道に草を生やすようなことをすな。



 色々にここのところを頂いております。また、素直にこのまま頂いても良い御理解ですね。それも、このおごりがましい、ね、驕慢とか、高ぶるとかといったような、そういうものがあってはいかん。また、そういうことをしてはならぬ。なるほど、細うても長う続かなければ、繁盛ではないということも分かる。
 その細い道でも、しだいに段々、去年よりも今年、今年よりも来年という風に踏み広げて行く。少しずつ繁盛して行く、と。その繁盛しておる、いわば実績が上がって行く、と。ね。そういうのが、繁盛だと思う。はあ、高山、えらい繁盛しとるげなですねと言うて、その、ただ一時的にパーッとこう、いうのは、それはしかし、繁盛ではあっても、本当の繁盛ではない。
 繁盛というのは、ずうっと親の代より子の代、子の代よりも孫の代。ね。本当は、去年よりも今年というように、少しずつでも繁盛して、こう広がって行くというのが繁盛じゃ。ね。その歩いて行く道に草を生やすな、と。お粗末ご無礼のあるようなことがあってはならん。狭い間はきれいに取りよったけれど、広うなったら、もう、手があおげない。草が生えしこっておる。そういうのは、繁盛じゃない、と。ね。
 ところが、私は、この八十四節を今日頂いてみてですね、はたして、このようなおかげを受けておるお道の信奉者が、はたしてどのくらいあるだろうかということです。ね。親の代よりも子の代、子の代よりも孫の代といったようにです、たとえば、


 なるほど、先代の時には、もう大変なごひれいを頂かれたとか。ね、お父さんの時には、もう、結局、まあ、言うなら教会で総代どもされて、大変おかげを受けておられたが、さあ、息子さんの代になったら、信心も細々と、反対に駒うなってしもうとる。といったようなものが多いのであって、実際、この細々ながらでも、ね、だんだん、金光様のご信心を頂いておれば、次第に繁盛して来ておるというようなおかげを、実際に受けておる信者が、まあ、おらないと言うてもよいくらいに少ない。
 これはこれは、大変なこと、おかしなことだと、一つ皆が思わなければいけないですね。それは確かにですね、おかげは受けてるんです。ですから、やっぱ信心も、まあ、止められないわけです。けれども、それが、ここで教えておられますようにです、踏み広げて、一つも通っていないということです。非常に(どんぶり多い?)と。ね。親父ん時には細々であったけれども、やっぱ、息子はえらい繁盛した。ところが、孫ん時には、もう爺さんの時以下にまた落ちたといったようなですね、それはなるほど、栄枯盛衰は世の習いと言うから。ね。その世の習いということでしますわけにはいかん。
 私どもはそれを思や、そういうことを願っとるはずはない。そこを、金光大神の道というのはです、ね、そういうようなことではない、次第次第に踏み広げて。ね。そのかわりに、やはり、またの御理解にありますように、(濡れ手で泡のつかみ取りの?)気になるなと、こう仰る。ね。ずうっと、少しずつでも繁盛して、少しずつでも踏み広げて。踏み広げるという努力ですね、いわゆる。
 そういうものが、お互いの信心の上に見られなければならん。また、そういうおかげが現われて行かなければ、私は金光大神の道をいわゆる信奉しておるとは言えないと思うんです。でないと、今度は御教えならこの御教えが嘘になってしまう。
 あそこは、もう、代々金光様の信心しござるばってん、ということになる訳です。ね。特に私は、この御理解を頂いて、そこに一つの不信を、いわば今朝は感じたんですよね。金光大神の教えを頂きながら、道におりながら、繁盛していない。とにかく、道に草を生やすようなことをしておる。また、おごりがましいことをしておる。だから、頂いたおかげを、また取り外しておる、と。ね。
 細い道でも踏み広げておると仰るが、一つも踏み広げて行くという努力、精進というものをしていない、と。ね。ただ、行きよりゃあ、広がるといったようなもんじゃない。踏み広げて通るということは、それだけの精進、それだけの努力というものをして行かなければいけないということ。
 昨日も、ある方が朝の御祈念に参って来て、自分ところの、ご親戚の方のことのお届けをされるんです。やっぱりそっちも、長い間、金光様のご信心をなさっておられます。もちろん、別に他所の教会ですけど。親一人、子一人。ちょうど椛目が始まった頃、お導きを頂いて、ここに、まあ、繁々と参っておられた時代もありましたけれども、やはり、自分の親教会ていうのが近所にありますから、そちらで稽古をしておられる。ね。いつも、その親子のいわゆる人間関係。たった親一人、子一人でありながら、親子の人間関係が思わしく行かない。
 お母さんは、非常に熱心に、まあ、実意な信心をしておるにも関わらずです、やはり、二十年前と今日が一つも変わっていない。むしろ、その子供さんが最近言われることは、もう、家の子供は、私の顔を見るとも嫌なごたる感じがするて。だから、2~3日ここに、まあ、逗留したいという意味のことを言われる。
 それはあんた、今朝、連れて来りゃあ良かったち、まあ、言いましたけれども、もう、そういう意欲も欠けておることですよね。やはりその教会では、まあ、言うならば熱心な御信者で通っとられる方なんです。
そして、なら子供が色んなことに、まあ、遊び事に使うだけというのじゃなかろうけれども、色んなことをしては、もう、まあ、言うならば、(いっちょう)あった田んぼは五反になり、五反の田も三反になるちゅう風に、段々、その、行き詰まっていきよるということである。
 だから、どんなに考えても、その思いますのにですね、この、教えを受けないということ。ただ、お参りをしておる。それは、金光様で教えがないことはないですけれどもです、いわゆる、生きた教えがない、と。本当に、その生きた教えを、生活の上に現して行けれるほどしの教えがないということ。そこにです、そういう結果になって来る。これは、その方だけのことじゃありません。そういう意味合いにおいてなら、合楽も含めてです。合楽も含めて、なら、少しずつでも繁盛しておる。これだけは、おかげを頂いて行きよるといものは、実はまれなんだ。
 厳密に言うたら、ないかも知れんほどしに難しいこと。それが、なぜなのだろうか、と。金光様の信心を頂いておってです、ね、それはやはり、その、その時その時におかげを受けますですわね。そして、まあ、何とはなしにおかげを受けておりますですよね。それを実感しますから、やはり信心は止められんのですけれども、なら、八十四節にありますような、細うても踏み広げて通っていないということ。
 踏み広げたかと思うと、もう、そこには草を生やしておるということ。もう、そこには、驕慢な態度が出ておる、おごりがましいことを、もうしておるから、はあ、あんなこっじゃいかん、あんなこっじゃいかんと思うておる内に、ちゃんと、またおかげを落としとるということ。どうしてだろうか。
 私はその、こうして教典を紐解かせて頂く度に思うんですけども。この教典で一分一厘だって嘘はないということですよ。それを頂く者側が間違えるから、本当に教えが嘘になるような結果しか生まれていないのだ、と。私は、そう確信しております。で、今日も、この八十四節を頂かせてもろうて、まあ、ここはあらゆる角度から色々に頂きますけれど、今日はそういう意味においてですね、どこに欠けておれば、どこが欠けておれば、踏み広げて行くことになっていないのか、と。
 ただ、お参りをしておるということが信心の稽古だと思うておったら、大間違いであるということ。ね。天地の親神様という御方はですね、まあ、言うならば、まあ、楽器のような御方だと思う出すね、私は。まあ、言うなら、その、大きなピアノならピアノがあるでしょう。ピアノのようなもんですよ。それを、毎日見げ来たり、誰かそれを弾ける人が、弾いておるのを聞いておるだけではいかんです。
 ね、天地の親神様のおかげを受けるということは、ね、やはり、ここには信心のけいこに通うて来るのじゃと、こう仰るのですから。私どもも、そのピアノに向かって、本気でですね、教えて頂くその楽譜をもとにしてです、ピアノを練習すると、けいこするようなものです。ね。
 そこから、たとえば、見やすい曲が弾けるようになり、難しい、ね、複雑な難曲でも、それを弾きこなすことが出けるのです。ね。そこのところの体得がですね、出けていないからだと、私は今日は思うた。私が夕べの御理解にも、その事を申しました。もう、最近の合楽というものは、もう、朝から、もうこの御祈念がはじまってから、もう、晩休ませて頂くまで、もう、まあ、言うならば、てんやわんやの毎日です。ね。
 たとえば、昨日一日のことを言うてもです、朝の御祈念が終わらせてもらう。終わると、後は引き続いてずっと御参りがあっておるが、昨日は、星野の教会の御大祭と霊祭がありましたから、ご案内頂いておったから、若先生が堤さんと一緒に参りました。ね。昼には、昼の御祈念。引き続いて敬親会。ちょうど、豊美の色んな買い物があると言うので、久保山さんが来て下さったから、久保山さんが久留米に豊美と行くと言われて、まあ、行かれた。
 ほで、敬親会が終わった。少年少女会が、昨日は合同の、ここでの四班に分かれて信心教育を受けましたからね、泊りがけで。で、昨日はその仕上げのような、外でその実地訓練を致しましたから、朝から。昨日、ようやく敬親会が終わったところへ、皆が帰って参りました。そして、今日一日の模様を、また親先生に見て頂いたり、聞いて頂いたりするち言うてから、共励殿でまたそのことをしました。
 もう、いわば、御風呂、夕食と、そして、ちょっと一服させて頂くと、もう夜の御祈念。夜の御祈念が終わったら、昨日は修行生の方達の信心共励の日でしたから、夕べは遅うまで、また共励致しております。というようにですね、もう、これは最近、毎日です。それに私が申しますのにですね、なら、どこに行っても、私が、親先生がおって頂かにゃならんというところには、顔を出しておるということです。
 それでいて、んなら私は、三十分ずつ、または一時間という(ぐらいじゃ?)あるけども、その合間合間にはですね、ご用の合間には、私は涼しい部屋で休ませて頂いておるちゅうこと。だからね、もう、信心しておかげを受けて、忙しいということは、そのようなものだということ。とても、この頃は忙しゅうすぎて、後はお参りも出けませんちゅうとに、絶対おかげじゃないです。
 もう、忙しゅうすぎてからお参りが出けんという時には、もう、いよいよ警戒せんならん時です。私は、夕べそのことを皆に、私のこの毎日の忙しさの中にです、もう、(どことこうひとつにご無礼?)。しかも、どれででもです、大変喜ばれてですね。その中に、まだ細かく言うなら、もう昨日は色々な特別なことがあったんです。ね。それがですね、一つもこう、ちぐはぐにならずに、まあ、言うならば、タイミング良うです、一日いろいろご用にお使いまわしを頂いておるです。ね。
 だから、おかげを頂いて忙しいというのは、そういうものでなからなければならん。ね。だから、忙しゅうて、そのことも出けん、このことも出けん、信心も出けんというな時には、もういよいよ、これはどこか狂うておるぞ、と。いわゆる、ここでは、ね、特別の繁盛をパーッと頂いておるわけですよ。ね。ところが、そこにその繁盛がです、繁盛に目が狂って、おごりがましいことをするから、それがまた、ペチャンと行くわけなんです。
 だから、そういうことをいくらに繰り返し、そして、なら、またお願いすると、またおかげ頂くです。おかげ頂くばってん、また、おかげを落とすならあなた、なるほど、これで踏み広げて通るといったようなことがないことが分かります。なぜなのか、と。ね。いわゆる、日々がですね、いわゆる、私たちがいっちょ、親神様はピアノのような御方じゃ、と。それをけいこすることが、信心のけいこだ、と。
 いわゆる、リズミカルな生活がなされていないからだ、ということです。ね。調子というものがある。ね。楽器を奏でる、そこには、まず調子が狂うておった、狂うた楽器では、もちろんけいこは出けませんが。ね。調子が整う。そこから、けいこをする。それは、見やすい。ね。小学校で歌うような、鳩ポッポのような歌でもいい。(しろじに赤く?)でもいい。ね。
 それをこう、弾きこなせるところからですね、いわば、それが一つの音律になってです、ね、聞いておっても楽しい、その、歌なら歌、音楽なら音楽がそこから流れ出て来るのであります。ね。ですから、そのキーのどの一つを疎かにしてもいけないということですよ。ね。ドレミファとこうあるなら、もう、ドレだけでよかよか、ミはいらんち言うてからとったら、もう、ドレミはならんのです。
 そこをです、私はしだいに踏み広げて通る。もう、いつも絶えまざるところのもの、いつも、自分の信心生活というものがです、見極められて。だから、信心とは拝んで、御取次ぎを頂いて、お願いをすることだけのこと。たとえば、さっき礼を申しましたよね。私が知ってから、もう、二十年このかた、その方です、親一人、子一人の中で、昨日話を聞かせてもらうと、一つもおかげが進展しているどころか、むしろ財産は無くなって行く、むしろ最近ではです、そのたった一人の子供がです、親の顔を見るのも嫌だというようなものを、親が感じておるということは、どうしたことであろうかと、金光様の信心を熱心に頂いておってもです。ね。私は信心を頂いておる者が、その教えのリズムというものを体得していないからだと思います。
 本気で信心のけいこがなさる。ただ参っておれば、なるほど、参っとりゃいつか分かる、と。ね。四神様が、ね、拝み信心、参り信心といったようなことを言っておられます。金光様、どういう信心をさせて頂いたなら良いでしょうかち。そうじゃなと。お参り信心、ご利益信心、拝み信心。信心にも様々あるけれどな、まあまあ、お参り信心をとったらよかろうという意味のことを仰っておられます。
 それは、お参りをしておる内にはです、ただ、ご利益ならご利益、ただ拝むなら拝むということだけで信心を終わったらです、おかげが受けられなかったら、もう、信心を(痛う?厭う?)ようになる。ね。神様を恨むようになる。だから、まあ、いっぱし参ることじゃと仰ったという、その、いっぱし参っておる内には、教えを受けるであろう。教えを受けたら、少しは耳が開けて来るであろう。ね。
 開けてきたら、いわば、心の眼も開けて来るようになるだろうというのが、まあ、いっぱし参ることじゃと仰ったのであって、参りさえすれば良いというのじゃないです。参っておる内には、教えを受けるであろう、その教えが身について来るようになるであろうということだと、私は思うのです。ね。そして、自分自身がです、その楽器の練習をするように。ね、本気でそのことに取り組まなければいけない。
 先日、昨日一昨日は竹葉会でしたが。ひと月の、まあ、心行目的といったようなものを、まあ、ほとんどが月に一回しかお参りが出けないという、若い嫁さん達ばっかりの会です。ですから、もう、とにかく本気で取り組まなければと言うので、腹を立てんという修行をさせて頂こうじゃないですかという話し合わせをされて。そして、そのことがどのような結果を生むか、次の、いわゆる昨日一昨日のそれに発表しようじゃないですかということで、昨日一昨日、それが発表をなさっております。
 それはもう、素晴らしい体験が生まれておる。ね。なるほど、これは、もう腹を立てんなら、長生きするはずですよち言うてから、そういう体験を。ね、なるほど、腹をいよいよ立てられんなら、おかげ頂くはずですよ、と。ところが実際は、腹を立てんち決めたら、もうその場から、腹を立てるようなことが起こっておるとは、どうしたことだろうかといったようなことが、共励の焦点になっておったようでした。私は、その後に入ったんですけどもね。
 そして、たとえば、その、取り組むということは難しいけれども、また楽しいということを言うております。本気で、たとえばね、腹を立てないという、まあ、信心で言うなら見やすい曲に取り組んだわけなんですよ。そして、なかなか手をとって、こうやって教えてもらうようにしても、なかなか、その一遍には弾けんのだ、と。けれども、ところどころが、こうやってその、まあ、調子のいいリズムが流れてくるというような体験を頂いて。ね。
 そういう意味での、私は取り組みというものがなされていない。ね。ただ、お参りをするだけ、ただ拝んでおるだけ、ただ、教えは右から聞いたり、左に流してしまうだけというようなことではです、言うならば、その方の教会で、なら、本当の御理解、まあ、ありよろうけれども、まあ、何ち言うでしょうかね、その教えをもとにした生活が出けておられん。それが、二十年近くも同じようなところを繰り返し、同じところじゃない、かえって悪化しておるといったような結果になっておるのじゃないだろうか。
 たとえば、どういう難儀な中にあってもです、心の中にそのリズムというものはですね、調子というものは、皆さんが、なら、テレビならテレビから流れてくる音楽を、隣の部屋から聞いとっても楽しいでしょうが。ね。そういうようなものが、自分の心の中から流れてくるのですから、そのリズムに乗ってのおかげを頂けれんはずはないのです。ね。
 昨日一昨日でした。椛目の私どもの姪が、家の一番下の娘を連れて、買い物にやらせて頂くからという御届けをしてから、夕方から買い物に行っとります。今日は直子ちゃんもお届けさせて頂いてから、親先生の返事がとても良かったけん、今日はおかげ頂くばいち。何か買い物に行くち言うと、どうか、こう一時御祈念してからしか返事しないとを、今日は、もうとても返事が良かったけん、今日はおかげ頂くよち言うて、その、まあ、二人で行ったわけです。
 ところがですね、まあ、いろいろ、こざこざな物だいぶん買うとるようですけれど、買いましたそうですけれども。もう、それがみんな、不思議に八の字がついとる。八円とか、八十円とかですね。その、いうような、もうずうっと、だから、もうそれこそ二人で顔見合わせながら、その、バスの停留所に来たら、七時四十八分ちゅうごたることで、それまで八分がついとる。
 それで、こちらへ着かせて頂いたら、ちょうど八時ちゅうごたる時に、その帰ってきたと、こういうわけなんですよ。もう、今日は、もうとにかく、買い物の楽しみよりもね、そのことの方が楽しかったと言うて、お届けをしております。ね、たとえば一つのリズミカルな生き方っていうのは、そういうもんです。もう、そのこと事態よりもですね、そのリズムに乗っておるということが、楽しいのです。
 おかげということよりもです、それは、(ばわにのけんがく?)になっとるかも知れませんけれども、そこんところから流れてくる、そのリズムの方が楽しいのです。ね。だから、そういうおかげの頂けれる道なんです。ね。だから、そういう私は、信心のけいこをですね、ね、いわゆる、踏み広げて通る。ね。それは、努力して通るということなんです。
 ただ、通るだけで踏み広げることにはなりません。踏み広げて通るということは、努力して通るということなん。ね。だからと言うて、今度は踏み広げたからと言うてです、もう手に負えんようになったと言うて、草も取り合わせんというようなことではいけん。雑草を生やすなと、こう。そこは、おごりがましい、怠慢、そういうものがです、また、道に草を生やすようなことになって、またせっかくの広がった道が狭うなったり、そこで道が止まったりするのです。私は思うのですけれどもね、そういう信心を、だいたい体得しながら、自分でも出けるようになったと思うんでしょうかねえ。
 いや、まあ、出来るんです。けれども、もっと素晴らしい、複雑な曲に取り組もうとしない人達が、合楽には非常に多いことに驚きますですね。まあ、ある程度けいこいたしますですね。それでその、自分で体得するわけですね、そこんところ。そして、次の難曲といったような、言うならば、その、ベートーベンならベートーベンなんかのような、ね、交響楽のような難曲に取り組もうとしない。ね。
 惜しいことだと、こう思う。ね。そこんところがですね、それで止まったら、必ずそこで止まるですよ。ね。おかげはその程度で止まりゃええばってん、信心の方が止まりますから、ね、人間ですから、やはりおごりがましい心が起こってまいったり、また、だらしがない怠慢な心が起こったりするわけです。ね。そして、なるほど、この御教えが全部嘘になってしまうような結果しか生まれてない。
 そこにです、私が知っておる限りのお道の信奉者がです、ね、このようなおかげを頂いていないという事実をですね、私どもは不思議なことだなと、一遍思わにゃいかん。そして、合楽で信心のけいこをさせて頂いて、ここんところを体得し、ここんところを思わず絶えまず信心のけいこをすりゃ、どういう難曲にでも取り組んで行って、それが弾きこなせれるようになるというようなです、おかげを受けて、本当に徳を受けてです、あの世にも持って行け、この世にも残しておけるというようなおかげのところまで、私は持って行っとかなければね。
 そこにはね、非常に楽しいもの。それは、音楽のけいこをするようなもの、ピアノを奏でるようなもの。ね。そこでその、何事にも、信心になれよとか。ね、手元のところを大切にせよと。銘々の生活の現場においてといったようなことを、今、現教主様は仰っておられますよね。だから、その中にはですよ、そんなら、もう金光様の信心をすんなら油断も隙も出けんけん、休むこつも出けん、寝るこつも出けん、面白いもん見るこつも出けんというようなことじゃ、決してないということ。
 まあ、最近私は、テレビを見る本当に暇はありません。けれども、その休む時間といったようなものは、ちゃんとあることです。ね。ほれで、目覚ましのおかげを頂くと、ちょうど敬親会の方達の、昨日なら昨日で言うなら、敬親会の方達の、ちょうど一番都合の、一通り体験発表が終わって、さあ、これから親先生のお話でも頂きたいというところへ、私が入って行くようにですね。
 もう、実にその、調子をおかげを頂いて行き。ね。ですから、その眠っておるとか、テレビを見ておるとか、お芝居を見ておるとか、買い物に行っておるその中にもです、ね、あのリズムが出て来るんだということ。決して、信心ていうものは厳しいもんじゃない。だから、問題はけいこをするという気になること。
 たとえば、もう、(のべつまくなしに?)ジャンジャンジャンジャン弾いたら、もう、どんなに素晴らしい、そのあれであっても、いけません。それには、必ず間というものがあるんです。間があるからこそ良いのです。また、人間、その間というものがなかったら、やりきれるもんじゃないです。ね。(音曲?)のことについても、特に私どもはその間ということ。歌を歌ってもそうです。ね。お話をしてもそうです。間のないお話ぐらい、聞きにくいものはないです。
 だから、決して、その、のべつまくなし、機関銃んごと喋るということじゃないです。ね。そこには、必ず適当な間というものがあって、楽しいものであり、有り難いものなんです。だから、その間をですね、間違えずに、その休んでよか時に休まず、ね、お芝居見て良い時に、お芝居を見らず。そして、見ちゃならん時に見たり、休んじゃならん時に休んだりして、いわゆる、おごりがましいことになって来るわけなんですよね。だから、その辺がね、リズムが出て参りますと、その、私どもの姪の買い物じゃないですけれども、もう、それが楽しゅうなって来るようなね、生き方があることを、一つ体験し、または、そこんところを頂かない、頂こうと努力けいこしないところにです、ね、いわば、(音曲)が乱れに乱れてくるんだと、調子が乱れて来るんだ、と。
 そして、信心なしよるけれども、拝みはおるけれども、その本当の信心の有り難さと、時々、まあ、先生が弾いてくださる、それを聞いてよかなと思うだけであって、自分の家じゃ、もう何になっとらんというような結果に。自分自身が弾き習わなきゃ。ね。私は、今日の八十四節をそのような風に頂きましたんです。
 おごりがましいことをすな。細うても長うつづかねば、繁盛でない。細い道でもしだいに踏み広げて通るのは繁盛じゃ、と。道に草を生やすようなことをすなという、だから、このこと事態を説くのじゃなくてですね、こういうことになって来ないのは、どういう訳かということを、今日は聞いて頂いたんですね。どうぞ。